深浦会長は、九州大学工学部在学中、障害児のためのボランティアサークルで活動。大学卒業後は企業に就職するが、大学時代にボランティアをしていたあけぼの学園の理事長との会話をきっかけに、言語聴覚障害のケアを学ぶことを決意。会社を退職し、あけぼの学園の職員として言語専門職の養成機関に派遣され、1年間言語の指導などを学んだ。
その後、あけぼの学園や大学病院での勤務を経て、言語聴覚士の養成大学・大学院で教授として指導を行うかたわら、一般社団法人日本言語聴覚士協会会長として、言語聴覚士の広報や環境整備などに取り組んでいる。深浦会長が言語聴覚士としてのキャリアをスタートした当時は、日本における言語聴覚ケアの黎明期。言語聴覚士の国家資格もまだ存在しなかった。深浦会長のキャリアは、言語聴覚士の歴史といっても過言ではない。そんな深浦会長に、言語聴覚士の現状や未来、若者たちへのメッセージについて伺った。
サラリーマンから、当時はまだあまり知られていなかった言語聴覚ケアの世界に飛び込んだ深浦会長。その選択には、大学時代のボランティア経験が大きく影響している。深浦会長に、キャリアを振り返っていただいた。
言語聴覚の分野に進んだのは、大学サークルでのボランティア活動の影響が非常に大きいです。九州大学の工学部の機械工学科に入学して、高校までクラブ活動をしたことがなかったので、サークルに入ろうと思ったんです。
実は当時は医療分野にはなく、身体を動かしたいし、障害児のケアにもちょっと携わってみたいなと思って、色々な大学が合同で活動している障害児ボランティアサークルに入りました。そこのサークルでは、障害を持つ子どもたちと接するだけではなく、施設を訪問して、設備の修理とかそういった運営の手伝いもしていました。
当時は、学生運動が下火になったばかりなので、社会的な取り組みへの意識が高かったんです。障害児をとりまく問題というか、障害児が置かれている立場を理解しようといった感じでしたね。そして、自分たちがどんなことができるのかを考えようという考えのもと活動していました。
卒業後はどうしようかなと考えて、一度小さな会社に入ったのですが、「やっぱり違うな」と思ったんです。長期休みに、ボランティアで行っていたあけぼの学園の理事長の先生と飲んでいた時に、言語の指導ができる人を養成する養成所が東京にあって、そこに人を派遣して自分のところで専門的な指導ができるようにしたいという話を聞きました。僕は就職していたので、「後輩を紹介してくれないか」と言われたんですが、酔っぱらっていたのもあって「それなら僕が行きましょうか」って言って、「お前が来るならそれはいいや」みたいになりました(笑)。
もちろん乗り気ではあったのですが、休暇が明けて会社に戻っていろいろ悩んで、仲間と相談して、「やっぱり今の会社にいるよりは、そういうところに行きたい」という気持ちが強くなって、会社を辞めました。
その年の11月ぐらいにあけぼの学園に就職して、次の年の4月から、国立聴力言語障害センター(現在の国立リハビリテーションセンター)にあけぼの学園の職員として派遣されて、1年ほど言語聴覚士になるために勉強しました。
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