大阪大学を卒業後、大阪大学医学部第一外科に入局し、心臓血管外科医の道に進んだ澤教授。フンボルト財団の奨学金を得て、ドイツに留学。その後、大阪大学にてキャリアを重ね、2006年に大阪大学大学院医学系研究科心臓血管外科主任教授に就任した。就任後は、世界初のiPS心筋細胞シートの手術を行うなど、新しい治療法を積極的に取り入れるとともに、組織改革を通して手術件数を大幅に増加させた。2020年秋には、紫綬褒章を受章。心臓血管外科の最先端を走り続ける澤教授のお話は、発見と学びに満ちている。
大阪大学医学部心臓血管外科医局のトップとして、心臓移植や世界初のiPS心筋細胞シートの手術といった最先端の治療に取り組んできた澤教授。医師になったきっかけや中学時代のバスケットボール部での経験、医局時代のできごとなど、澤教授のキャリアにおける“原点”について詳しく伺った。
僕のキャリアを考えるうえで、中学・高校時代のバスケットボール部での経験が非常に大きいと思います。子どものころは身体が弱かったのですが、中学に入った時にバスケットボール部に入部しました。すごく過酷なスポーツで最初はついていくのがやっと。でもハードな練習を重ねるうちに、だんだん体力がついてきたこともあり、2年生の時にキャプテンになったんです。
コーチが非常に厳しくて、1年のうち2日しか休みがないような部活で、僕がキャプテンになる前は近畿大会で優勝するくらいの強豪でした。だから、求められるミッションが高くて、リーダーとしての自覚や人の動かし方をすごく問われましたね。サボっているチームメイトをどう動かすかとか。
バスケットボールを通して、物ごとを達成するための努力の仕方ですとか、チームの動かし方の基礎みたいなものを学べたかなと思います。その経験があったからこそ、若手のときからがむしゃらに取り組めましたし、医局でのマネジメントにも役立っています。
医師になったきっかけは、高校2年生のときに僕を可愛がってくれていたいとこが、27歳の若さで交通事故で亡くなったことです。その人は、阪大医学部で学んでいる最中でした。僕の祖父も同じく阪大医学部出身の医者だったのですが、腸チフスに感染して殉職しています。
使命感というわけではないですけれど、「人ってこんなに簡単に死ぬんだ」と思って、医師を目指す方向にシフトしました。
その後、祖父やいとこと同じ阪大医学部に入学したのですが、正直、はめを外してしまいましたね。6年生の夏まで卒業ぎりぎりくらいの感じで、夏はテニス部、冬はスキーを楽しんでいました。先輩の経営するペンションで過ごしているうちに、「こういう生活いいな」と思っていたのですが、6年生の夏が過ぎたころから、またスイッチを入れて、物事を達成するにはどうするべきかというところに立ち返り、猛勉強して国家試験に合格しました。
バスケットボール部での経験から、自分は頭で覚えるよりも身体で覚える方だから、物事を達成するには、外科しかないだろう。そう思って、日本、いや世界一厳しいといわれる第一外科に入局。究極は心臓かなと考えて心臓外科を選びました。とにかく前向きな気持ちで手を抜かず、身体で覚えていきました。それから今まで40年間、スイッチを入れたままです。
絶対に物ごとを達成するというがむしゃらな気持ちがあったから、日本で最初に遺伝子治療や再生医療の研究に取り組んで、形にすることができたのだと思います。
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