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教えるは、学ぶの半ばなり
教えるは、学ぶの半ばなり

教えるは、学ぶの半ばなり

長崎大学病院 医療教育開発センター 教授浜田 久之

長崎大学病院 医療教育開発センター
教授
浜田 久之

大分医科大学を卒業後、長崎大学病院・内科で初期研修を修了。その後、いくつかの医療機関での勤務を経て、医療現場で研修医や若手の医師の教育に携わってきた浜田教授。医学教育にささげたキャリアについて伺った。


(長崎大学病院 医療教育開発センター 指導医の先生と共に)

最大の成功は、指導に携わった研修医が一人前の医師として活躍していることだという浜田教授。医師としての原点は、長崎の離島で育ち、医師の必要性を感じたこと。25歳での医学部入学、学習塾経営、マッチング率の改善などこれまでの歩みを振り返っていただいた。

 

私が医者を目指した原点は、長崎の離島という医療が充実していない地域で育ったことです。地元にも医者はいたのですが、重い病気にかかると福岡の病院に運ばれて治療を受けるという状況でした。子どもの頃から、友達が運ばれるという経験を何回もしています。医者のいない地域で育ったからこそ、「医者って必要なんだな」と思っていました。

また、私は読書が好きで、北杜夫や森鴎外といった医者でもある作家の観察力のすごさに魅力を感じていました。その影響で、何となく「自分も医者になって文章を書いてみたい」と思うようになったんです。

しかしながら、医師になりたい気持ちはあったものの、医学部に入学できるほどの成績ではなく、浪人したり大学を中退したりして、25歳の時に大分医科大学に入学しました。日本中を放浪して色々なことをして「結局、自分は医者になりたいんだ」と気が付きました。

ただ学生とはいえ25歳なので、生活費を稼がなければいけません。大分医科大学に入学する少し前から、学習塾の経営を始めました。国語教師をしていた妻と協力しながら経営と教育に注力。当時は珍しかった、高校生向けの少人数指導を導入し、塾は大成功。医学部の勉強との両立は非常に大変でしたが、研修医になるまで続けました。学習塾での教育経験が、医学教育に出会う土台になりました。
大分医大を卒業後し、長崎大学で研修医になりました。教授の前で一人ひとり将来の目標を言う機会があり、
同期が「○○という病気を治したい」「海外留学したい」と言うのに圧倒され、自然に「医学と教育をつなぐ仕事をしたい」と言ったのを覚えています。

本格的に教育に携わったのは、研修医後へき地病院を回った後に、卒後5年目くらいから働いた国立長崎中央病院(現:長崎医療センター)でのことです。そこで、研修医の教育係をしてきました。医学知識や技術的なことだけではなく、医師としてのサバイバル術を教えていましたね。医師として活躍するには、医療スタッフに信頼されなければならないので、医師の前に普通の社会人として信頼されなければなりませんよね。だから、「看護婦さんの名前を全部覚える」、「ローテイトする前に師長さんには挨拶に行く」、「日頃から放射線科や検査部のスタッフと直接話をすれば、緊急時にそのスタッフが助けてくれる」、「学会に行ったら医局の事務スタッフにお土産を買ってきた方がいい」とか、教科書に書いてないことをよく教えていました。もちろん、院内の細かな情報も添えて。それが一番役に立ったと良く言われましたね(笑)。

つまり、私は思うのですが、良い医師の条件は、優れた臨床能力だけではありません。周りの医療従事者や患者さんへの対応、私生活のバランスが取れていることも重要です。指導する時も、バランスが取れた医師を育てるよう意識していますね。医師は世間知らずとか、威張っているとか、難しい話ばかりする、とか良く言われますが、自分自身も研修医もそうならないように、常に社会常識や世の中の流れは意識しています。

「医学教育をしている」と言われると、昔は同業者から変人扱いされました(笑)。「教育?それは趣味ですか?」みたいによく言われましたね。だから、私は「医学教育」という学問を究めようと思いました。カナダのトロント大学で医学教育を学び、名古屋大学で教育学部の博士号を取得しました。当時、医師で博士(教育)を持っている人は、日本で一人しかいないと言われましたが、よく分かりません(笑)。いずれにしろ、医療教育理論をしっかりと学んだという自信はあります。私の医学教育における強みは、理論と実践どちらも兼ね備えていることです。私自身が教えるのが上手いとかではありません。理論を学んでいるから、教え方を多くの人に伝えられるのです。私が主催する指導医講習会で、これまでに、1000名を超える医師に指導の仕方を教えてきました。

理論ばかりでなく、毎日臨床現場で研修医と接して教育を実践しているからこそ、医学教育の専門家として皆がいま認めていただいているのだと思います。

これまでの成功体験の一つとしては、長崎大学のマッチングの競争率を、全国5~6位まで引き上げたことです。マッチングとは、全国の医学生が初期研修を行う医療機関を決める制度です。実は地方では医学生が都会へと逃げてゆく傾向があるのですが、2010年に<新・鳴滝塾>という長崎県内16の病院を束ねた教育組織を作り、私が塾長として県内全体の研修医のリクルートや教育を開始しました。一時期は71人まで減少していたのですが、2020年には126人にまで伸びました。研修医が集まることが、良い教育ができている証明になっているといえます。しかし、コロナ禍で、長崎県のマッチングは大きなダメージを受けて、現在、V字回復に向けて取り組んでいます。2023年の今年は、良い感じで回復しています。

また、最近では2023年7月に開催した学会『第55回医学教育学会大会 医療者教育の光と影、そして、未来へ』では、大会長を務めさせて頂きました。約1,400人の方にご参加いただき、過去最高の参加者数ではないかと学会関係者が述べられていましたが、コロナ禍を経て医学教育のあり方について熱く語り合った素晴らしい時間が過ごせました。最終日には、港まつりの日で、7千発の花火が長崎港に打ちあがりました。世界三大夜景の長崎の夜空に、花火が打ちあがり、アフターコロナの新しい医学教育の時代の幕開けを演出してくれました。

そして、私自身だけでなく、我々の成功としては、指導に携わった研修医の成長です。彼らの多くが、地域病院や大学で働いています。彼らが頑張っている姿を見ると、「頑張って良かった」と思います。中には、「指導医になってからは、先生から教わったことをそのまま教えています」などと言われると、お世辞でも嬉しいですね。

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